聖書は神のことば?
世界のベストセラーとして、現在も不動の地位を築いている『聖書』。
クリスチャンは聖書を「神のことば」と信じ、並々ならぬ権威を置いています。彼らが、そのように信じる根拠は何なのでしょうか?
聖書は多くの人に影響を与えてきました
長年にわたり愛用されている薬があります。愛用され続けるのは、その薬に効き目があることを、たくさんの人が知っているからです。逆に、効き目のない薬は、使われなくなります。
聖書は、これまでにたくさんの人に良い影響を与え、希望と平安に満ちた人生に変えてきました。また、法律の基礎や社会的弱者の地位向上、文学や芸術に貢献しました。もし、聖書が人類に何の影響も与えないのなら、世界のベストセラーにはなり得ません。聖書は、人類の歴史という試験場でテストされ、その効果と信頼性が確かめられて来た書物なのです。
この事実は、聖書が神のことばであることの直接的な根拠にはなりませんが、聖書が人間を造られた神のことばであるなら、当然生じてくるものと言えるでしょう。
「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理がある。」アイザック・ニュートン
すばらしい書物なら、世界中の人に読んでもらいたいもの。
聖書はこれまで、2500以上の言語に翻訳され、現在も翻訳され続けています(部分訳含む)。

聖書全巻の内容に一貫性があります
聖書は初めから1冊の書物という形ではありませんでした。もともとは、66巻の別々の書物(巻物)でした。
これらの書物は、約40人以上の著者たちの手によって書き記されました。彼らは、生きた年代も身分も異なる者たちでした。一番古い巻物から一番新しい巻物まで、約1600年間(B.C.1500~A.D.100)という長い間隔があります。そのような長期間であれば、当然、著者同士が打ち合わせをすることなどできません。しかし、そこに書かれてある内容には一貫性があり、66の書物間で矛盾がありません。聖書を読めば読むほど、神のご性質、人間の性質、罪に対する神の態度、人が救われるための方法、人間に対する神の愛など、多岐にわたるテーマが書物間で見事に調和されていることに驚くばかりです。
この一貫性は、それぞれの書物を書き記した者の背後に、時代を超えた『真の』著者がいなければ成しえないわざです。その真の著者とは、聖書が主張している通り、神ではないでしょうか。
聖書の預言が成就しています
聖書を神のことばとして信じることのできる根拠は、預言が一つも外れることなく、細部に至るまで実現(成就)しているということです。聖書自身がこう述べています。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである」(申命記18:22)

もし、聖書に書かれている預言が一つでも外れようものなら、「聖書は大ホラ吹きの書物です」と聖書自身が主張していることになりはしないでしょうか。そのような書物を誰が信頼して読むでしょうか。しかし、聖書が述べるように、これまでの歴史はすべて、聖書の預言通りに動いたのです。
聖書には、イエス・キリストについての預言だけで350以上あると言われていますが、そのどれもが100%実現しています。その預言の一例をご紹介しましょう。
【キリストのご降誕される場所・家系について】
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:2)
【キリストが十字架に架けられる時の様子について】
「彼らは目を凝らし 私を見ています。彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。」(詩編22:18)
※この「私」とはイエス・キリストのこと。キリストを十字架にはりつけにしたローマ兵たちの行動についての預言です。
「主は彼の骨をことごとく守り その一つさえ 折られることはない。」(詩編34:20)
※十字架に架けられたキリストの身体の骨が、どう扱われるかに関する預言です。
【キリストの復活について】
「あなたは 私のたましいを よみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」(詩編16:10)
・預言の成就についての疑問はこちら
聖書自身が神のことばと述べています
聖書が「神のことば」であると信じられているのは、なにもクリスチャンが勝手に決めつけたのではありません。聖書自身が、そう主張しているからです。
聖書の至る所に、「主(神)は言われた」というフレーズが繰り返し登場します。また、聖書が人間の勝手な意志によって書かれたのではなく、神に導かれた著者が書き記したと聖書は述べています(聖書原典において)。
「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(ペテロの手紙第二 1:21)