キリストの復活は歴史的事実か?
「死人がよみがえるなんてあり得ない」誰もがそう考えます。しかし、歴史の中でクリスチャンたちは、迫害で命を脅かされても、キリストが十字架で死に、葬られ、復活されたことを否定しませんでした。彼らは、作り上げられた復活物語を、盲目的に信じたのでしょうか。それとも、本当にキリストは復活したのでしょうか…。
500人以上の目撃者
聖書には次のように書かれています。
「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。」
復活の事実を裏付けるのは、何といっても多数の目撃者です。その数は「五百人以上」でした。
この数字が信頼できることを裏付けているのが「大多数は今なお生き残っています」という箇所です。この聖書記事(第一コリントの手紙)が記録されたのは、A.D.55年頃で、キリストの復活から約25年後のことでした。もし、この目撃者が多数いたという記録が使徒たちによる「でっち上げ」であるのなら、調査して存命中の目撃者がいないことを確認すれば簡単にこの記事のウソがバレてしまいます。それは、キリストの復活を否定する人たちにとっては好都合な材料を提供することになってしまいます。でも、実際には堂々と記されているではありませんか。
この聖書記録は、キリストが復活し、多数の人がそれを目撃したという『事実』を語り伝えています。
なお、弟子たちの幾人かは、復活したキリストと会話や食事をし、手で触れ、十字架ではりつけにされた時の傷跡まで見ました。これは、弟子たちがキリストと似た人物と見間違えた可能性を否定します。
墓の中にイエスの遺体はなかった
イエスの復活を疑う人は、まず墓に行き、イエスの遺体があることを確認すれば十分でした。しかし、墓の中にイエスの遺体がなかったので、復活の証言をくつがえすことができませんでした。
なぜ、イエスの遺体はなかったのでしょうか。もし、復活が事実でなかったとしたら、考えられる可能性としては、何者かが遺体を墓から持ち出したということです。
しかし、この可能性は、当時の状況を考えると、まったく考えられません。
ユダヤ人の指導者たちは、十字架に架かる前、イエスが三日目によみがえると言っていたことを思い出し、ローマの総督ピラトに墓の番をするよう願います。弟子たちが、イエスの遺体を墓から盗み出し、復活のうわさを流すのでは、と恐れたからです。
そこで、ピラトは兵士たちに墓の番を命じ、さらに、墓の入り口を大きな石でふさぎ、封印までします。
イエスの弟子たちは、イエスが捕らえられる時、恐れをなして逃げてしまうほどの臆病者でした。イエスが復活した時も、イエスを憎んでいたユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけ、閉じこもっていました。そんな彼らが、兵士たちの目を盗み、封印を破り、大きな石を転がして遺体を盗むことは、不可能でした。
イエスの遺体がなくなったという知らせは、ユダヤ人指導者たちをあせらせ、苦肉の策を講じさせました。それは、墓の番をしていたローマ兵たちに多額の金を払い、「われわれが眠っている間に、弟子たちが盗んで行った」といううわさを流させるというものでした。
墓の中にイエスの遺体はなかった。これは、イエス・キリストが復活したという事実以外に説明がつかないのではないでしょうか。

復活後の弟子たちの劇的変化
イエスの弟子たちは、非常に臆病であったにもかかわらず、復活のキリストに会ってから、非常に大胆になります。その大胆さは、死をも恐れぬものでした。
弟子たちや初代教会のクリスチャンは、イエスが神であり、救い主であることを宣べ伝えたために、ユダヤ人権力者やローマ政府から激しい迫害にあい、石打ち、十字架、市中引き回し、打ち首で殉教する者も出ました。
彼らは、キリストの復活を否定すれば、迫害から逃れることができました。しかし、次のように言って宣教を続けたのです。
「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒の働き 4:20)
弟子たちが命をかけてキリストを宣べ伝えるように変わった理由は、キリストの復活が事実であったという理由以外に、見出すことはできません。
Q.イエスは本当に十字架で死んだのか?
実はイエス・キリストは十字架で死んでおらず、仮死状態だったという可能性はあるのでしょうか。
結論を言えば、この可能性は排除されます。その理由を3つ挙げたいと思います。
・まず、イエスは十字架に架けられる前、かぎ爪のついた鞭で全身を打たれ、かなりの血液が流れ出ていました。そのダメージは、自分がつけられる十字架の横木を途中で背負うことができないほどでした。
・死刑執行にあたったローマの兵士たちが、イエスの死亡を確認しています。もし、死刑囚の脱走があろうものなら、兵士たちが死刑に処せられます。死亡確認という大事な任務を、いい加減にはできません。
・兵士のうちの一人は、イエスの脇腹を槍で突いて、死亡を確認しています。その時、イエスのからだから「血と水」が出たと聖書は記述しています。医学的には、はりつけにされ呼吸が正常にできなくなると、心拍が異常に高まり、肺や心臓の周りに水がたまってくるそうです。この水が、槍を突いた時に、イエスの身体から流れ出たと考えられています。兵士の突いた槍が、イエスの肺をつらぬき心臓近くにまで達していたということです。
これほど重傷の身体で、墓の入り口をふさぐ石を転がし、自由に歩き、弟子たちと会話し、食事をしたりすることができるでしょうか?
参考文献;『ナザレのイエスは神の子か?』、pp317-332、リー・ストロベル著、峯岸麻子訳、いのちのことば社、2004
【あなたへのメッセージ】
復活がなければ、イエスは…
もし、イエス・キリストが復活せず、墓に葬られたままであるのなら、今ごろ彼は宗教創始者の一人に数えられているかもしれません。
復活は、イエス・キリストが『神』であることを確証させる出来事です。『人』か、それとも、人となられた『神』か、そこに決定的な境界線を引くのが『復活』なのです。
もし、私たちを創造した神が存在するのなら(私たちクリスチャンは神の存在も創造も信じていますが)、神は私たちの想像や知恵をはるかに超越した方であるはずです。神が私たちを超越しておられるのなら、復活があり得ないと決めつけることはできないのではないでしょうか。科学が進歩し、人間の知識は増え、知恵は深まっています。しかし、「人間のアタマで何でも分かるのだ」という高慢さが、復活はあり得ないと決めつけているのではないでしょうか。
復活という人間の理解を超えた神の業(わざ)は、歴史的事実として私たちの前に置かれています。
イエス・キリストは、人となってこの地にくだり、十字架に架かり、墓に葬られ、三日目に復活しました。それは、あなたを罪のさばきから救い、永遠の幸いの中に招き入れるためです。この救いは、神があなたのために用意されたものなのです。
この記事を読まれたあなたが、イエス・キリスト信じ、救いを手にされますように。
心から願っています。
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ人への手紙 4:25)