
大久保 敏博 (医師)
私が聖書に接したのは、友人の影響です。その頃人生の歩み方について思索していました。孔子が「朝聞レ道、夕死可矣」(人としての道を悟ることができれば、すぐに死んでも悔いはない。)」と高校の時読んだ、漢文の影響かも知れません。「道」を知りたく、仏教の本や共産党宣言など、読み漁っていました。そんな折、大学時代同じ下宿の友人が教会に通い始めたので、聖書の言う「道」は何かと聖書を読み始めてみました。そしてとんでもない記述に出会いました。旧約聖書の中のダニエル書の預言です。その内容は、紀元前6世紀から2000年先に至るまでの世界史と、実に見事に一致していたのです。実に神は存在していたのです。また、ダニエル書の中に、イエスキリストの正確な出現時期の記述もあったのです。イエスは預言により、人として生まれた来るべきメシア(キリスト)だったのです。
そのイエスの言葉です。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」。私ってそんなに悔い改なけれなければならない罪人なんだろうか?と言うのが率直な感想でした。自分の力で清く正しい人生を送ってみようと試みました。しかしそれは数日で挫折しました。なんと平然として、罪を犯しながら毎日を送っていたことかと気付きました。しかし最も大きな罪は、自分を作ってくれて、生きるのに必要なすべてを与えられてくださっている神様に感謝もしないで生きていることなのだ、と言うことを間もなく知りました。何という恩知らずな人間でしょう。しかしイエスは、この恩知らずな私を赦すために、十字架に自らかかって下さったのです。あり得ない事です。私は直ぐに救い主として、受け入れました。
それから約50年、今は医師としてたくさんのお年寄りの入院患者さん方を診ております。殆どは80歳以上の方々です。1日中ベッドでウトウトしているか眠っています。裕福だった方もおります。財産も身寄りもない方もおります。しかし終末期になると皆一緒です。お金が何になるでしょうか?名誉が何になるでしょうか?そしてこれが自分の将来の姿でもあります。今まで苦しい時もありました。心筋梗塞になり、遺書を書いて手術に向かった事もありました。しかしどの様な環境に置かれても喜びを持つ事ができます。神様に見出され、主イエス様と交わる喜びです。誰も奪い去ることのできない永遠の喜びです。その喜びを私は掴むことが出来ました。